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美里の手から何かが落ちた。銅製の花瓶だった。『べんてん亭』の開店祝いのお返しとしてもらったものだ。
「美里、あんた……」靖子は娘の顔を見つめた。
美里は無表情だった。魂が抜けたように動かなくなっていた。
だが次の瞬間、その目が大きく開かれた。美里は靖子の背後を凝視していた。
靖子が振り向くと、富樫がふらつきながら立ち上がるところだった。顔をしかめ、後頭部を押さえている。
「おまえら……」呻《うめ》きながら憎悪の表情を剥き出しにした。その目は美里を見据えている。左右によろめいた後、彼女のほうに向かって大きく足を踏み出した。
靖子は美里を守ろうと、富樫の前に立った。「やめてっ」
「どけっ」富樫は靖子の腕を掴《つか》むと、思いきり横に振った。
靖子は壁まで飛ばされ、腰を激しく打った。
逃げようとする美里の肩を富樫は掴んだ。大人の男の体重をかけられ、美里はつぶされるようにしゃがみこんだ。その上に富樫は馬乗りになった。美里の髪を掴み、右手で頬を殴った。
「てめえ、ぶっ殺してやる」富樫は獣の声を出した。
殺される、と靖子は思った。このままだと本当に美里は殺されてしまう――。
靖子は自分の周りを見た。目に入ったのはホーム炬燵のコードだった。彼女はそれをコンセントから引き抜いた。一方の端は炬燵に繋がれている。しかし彼女はそのままコードを持って立ち上がった。
美里を組み敷いて吼《ほ》えている富樫の背後に回り、輪にしたコードをその首にかけると、思いきり引っ張った。
ぐあっと唸《うな》り声をあげ、富樫は背中から落ちた。何が起きたか察知したらしく、懸命にコードに指をかけようとしている。彼女は必死で引いた。もしここで手を離したら、二度とチャンスはない。それどころかこの男は、それこそ疫病神の如く自分たちに取り憑《つ》くに違いないと思った。
しかし力比べになったら靖子に勝ち目はない。手の中でコードが滑った。
その時だった。美里がコードにかけられた富樫の指を引き離しにかかった。さらに男の上に乗り、彼が暴れるのを必死で止めようとした。
「おかあさん、はやくっ、はやくっ」美里は叫んだ。
もはや躊躇《ためら》っている場合ではなかった。靖子はきつく目を閉じ、両腕に渾身の力を込めた。彼女の心臓は大きく鼓動していた。どっくどっくと血の流れるのを聞きながら、コードを引っ張り続けた。
どれぐらいそうしていたのか、自分ではわからなかった。我に返ったのは、おかあさん、おかあさん、と小さく呼びかける声が聞こえてきたからだ。
靖子はゆっくりと目を開けた。彼女はまだコードを握りしめていた。
すぐ目の前に富樫の頭部があった。ぎょろりと開いた目は灰色で、虚空を睨んでいるように見えた。その顔色は鬱血のため青黒くなっていた。首にくいこんだコードは、皮膚に濃い色の痕をつけていた。
富樫は動かなかった。唇から涎《よだれ》が出ていた。鼻からも液体が漏れていた。
ひいい、と声を上げ、靖子はコードをほうりだした。ごん、と音をたてて富樫の頭部は畳に落ちた。それでも彼はぴくりともしなかった。
美里がおそるおそるといった感じで、男の上から降りた。制服のスカートがくしゃくしゃになっている。座り込み、壁にもたれかかった。その目は富樫を見ている。
しばらく母娘は無言だった。二人の視線は動かない男に張り付いたままだった。蛍光灯のジーという音だけがやけに大きく靖子の耳には聞こえた。
「どうしよう……」靖子は呟きを漏らした。頭が空白のままだった。「殺しちゃった」
「おかあさん……」
その声に、靖子は娘に目を向けた。美里の頬は真っ白だった。しかし目は充血しており、その下には涙の跡があった。彼女がいつ涙を流したのか、靖子にはわからなかった。
靖子はもう一度富樫を見た。息を吹き返してほしいようなそうでないような、複雑な気持ちが彼女の胸中を支配していた。しかし彼が生き返らないことは確実のようだった。
「こいつが……悪いんだよ」美里は足を曲げ、両膝を抱えた。その間に顔を埋め、すすり泣きを始めた。
どうしよう。靖子がもう一度呟きかけた時だった。ドアホンが鳴った。彼女は驚きのあまり、痙攣《けいれん》するように全身を震わせた。
美里も顔を上げた。今度は頬が涙で濡れていた。母娘は目を合わせた。お互いが相手に問いかけていた。こんな時に誰だろう……。
続いてドアをノックする音がした。そして男の声。「花岡さん」
聞いたことのある声だった。しかし誰かは咄嗟《とっさ》に思い出せない。靖子は金縛りにあったように動けなかった。娘と顔を見合わせ続けた。
再びノックされた。「花岡さん、花岡さん」
ドアの向こうの人間は、靖子たちが部屋にいることを知っているようだ。出ていかないわけにはいかなかった。だがこの状態ではドアを開けられない。
「あんたは奥にいなさい。襖を閉めて、絶対に出てきちゃだめ」靖子は小声で美里に命じていた。ようやく思考力を取り戻しっつあった。
またしてもノックの音。靖子は大きく息を吸い込んだ。
「はあい」平静を装った声を出した。必死の演技だった。「どなた?」
「あ、隣の石神です」
それを聞き、靖子はどきりとした。先程から自分たちのたてている物音は、尋常なものではなかったはずだ。隣人が不審に思わないはずはなかった。それで石神も様子を窺《うかが》う気になったのだろう。
「はあい、ちょっと待ってくださあい」日常的な声を発したつもりだったが、うまくいったかどうかは靖子自身にはわからなかった。
美里は奥の部屋に入り、すでに襖を閉めていた。靖子は富樫の死体を見た。これを何とかしなければならない。
ホーム炬燵の位置が大きくずれていた。コードを引っ張ったせいだろう。彼女は炬燵をさらに動かし、その布団で死体を覆い隠した。位置がやや不自然だが、やむをえない。
靖子は自分の身なりに異状がないことを確かめてから、靴脱ぎに下りた。富樫の汚れた靴が目に留まった。彼女はそれを下駄箱の下に押し込んだ。
音をたてぬように、そっとドアチェーンを繋いだ。鍵はかかっていなかった。石神に開けられなくてよかったと胸を撫で下ろした。
ドアを開けると、石神の丸く大きな顔があった。糸のように細い目が靖子に向けられていた。彼は無表情だった。それが不気味に感じられた。
「あ……あの……何でしょうか」靖子は笑いかけた。頬が引きつるのがわかった。
「すごい音がしたものですから」石神は相変わらず感情の読みにくい顔でいった。「何かあったんですか」
「いえ、別に何でも」彼女は大きくかぶりを振った。「すみません、御迷惑をおかけしちゃって」
「何もなければいいんですが」
石神の細い目が室内に向けられているのを靖子は見た。全身が、かっと熱くなった。
「あの、ゴキブリが……」彼女は思いついたことを口走っていた。
「ゴキブリ?」
「ええ。ゴキブリが出たものですから、その……娘と二人で退治しようと……それで大騒ぎしちゃったんです」
「殺したんですか」
「えっ……」石神の問いに、靖子は顔を強張《こわば》らせた。
「ゴキブリは始末したんですか」
「あ……はい。それはもうちゃんと。もう大丈夫です。はい」靖子は何度も頷いた。
「そうですか。もし私で何かお役に立てることがあればいってください」
「ありがとうございます。うるさくして、本当に申し訳ありませんでした」靖子は頭を下げ、ドアを閉めた。鍵もかけた。石神が自分の部屋に戻り、ドアを閉める音を聞くと、ふうーっと大きく吐息をついた。思わずその場にしゃがみこんだ。
背後で襖の開く音がした。続いて、おかあさん、と美里が声をかけてきた。
靖子はのろのろと立ち上がった。炬燵の布団の膨らみを見て、改めて絶望を感じた。
「仕方……ないね」彼女はようやくいった。
「どうする?」美里が上目遣いで母親を見つめてくる。
「どうしようもないものね。警察に……電話するよ」
「自首するの?」
「だって、そうするしかないもの。死んじゃった者は、もう生き返らないし」
「自首したら、おかあさんはどうなる?」
「さあねえ……」靖子は髪をかきあげた。頭が乱れていたことに気づいた。隣の数学教師は変に思ったかもしれない。しかしもはやどうでもいいことだと思った。
「刑務所に人らなきゃいけないんじゃないの?」娘がなおも訊いてくる。
「そりゃあ、たぶん、ね」靖子は唇を緩めていた。諦めの笑みだった。「何しろ、人を殺しちゃったんだもの」
美里は激しくかぶりを振った。「そんなのおかしいよ」
「どうして?」
「だって、おかあさんは悪くないのに。全部、こいつが悪いんじゃない。もう今は関係ないはずなのに、いつまでもおかあさんやあたしを苦しめて……。こんなやつのために、刑務所になんて入らなくていいよ」
「そんなこといったって、人殺しは人殺しだから」
不思議なことに、美里に説明しているうちに靖子の気持ちは落ち着いてきた。物事を冷静に考えられるようにもなってきた。すると、ますます自分にはほかに選ぶ道はないと思えてきた。美里を殺人犯の娘にはしたくない。しかしその事実から逃れられないのなら、せめていくらかでも世間から冷たく見られないで済む道を選ばねばならない。
靖子は部屋の隅に転がっているコードレスホンに目を向けた。それに手を伸ばした。
「だめだよっ」美里が素早く駆け寄ってきて、母親の手から電話機を奪おうとした。
「離しなさい」
「だめだって」美里は靖子の手首を掴んできた。バドミントンをしているせいか、力は強かった。
「お願いだから離して」
「いやだ、おかあさんにそんなことさせない。だったら、あたしが自首する」
「何を馬鹿なこといってるの」
「だって、最初に殴ったのはあたしだもん。おかあさんはあたしを助けようとしただけだもん。あたしだって途中からおかあさんを手伝ったし、あたしも人殺しだよ」
美里の言葉に、靖子はぎくりとした。その瞬間、電話を持つ手の力が緩んだ。美里はその機を逃さず、電話を奪った。隠すように抱きかかえると、部屋の隅に行き、靖子に背中を向けた。
警察は――靖子は思考を巡らせた。
刑事たちは果たして自分の話を信じてくれるだろうか。自分が一人で富樫を殺したのだという供述に疑問を差し挟んでこないだろうか。何もかも鵜呑《うの》みにしてくれるだろうか。
警察は徹底的に調べるに違いない。テレビドラマで、「裏づけをとる」という台詞《せりふ》を聞いたことがある。犯人の言葉が真実かどうかを、あらゆる方法を使って確認するのだ。聞き込み、科学捜査、その他諸々――。
目の前が暗くなった。靖子は刑事からどんなに嚇《おど》されても、美里のやったことをしゃべらない自信はある。しかし刑事たちが突き止めてしまえばおしまいだ。娘だけは見逃してくれと懇願したところで聞き入れられるはずがない。
自分一人で殺したように偽装できないものかと靖子は考えたが、すぐにそれを放棄した。素人が下手な小細工をしたところで、簡単に見破られそうな気がした。
とはいえ、美里だけは守らねばならない、と靖子は思った。自分のような女が母親であるがため、幼い頃から殆どいい思いをしたことがないこのかわいそうな娘だけは、命に替えてもこれ以上不幸にしてはならない。
ではどうすればいいだろう。何かいい方法があるだろうか。
その時だった。美里が抱えていた電話が鳴りだした。美里は大きく目を開けて靖子を見た。
靖子は黙って手を出した。美里は迷った顔をした後、ゆっくりと電話機を差し出した。
呼吸を整えてから、靖子は通話ボタンを押した。
「はい、もしもし、花岡ですけど」
「あの、隣の石神です」
「あ……」またあの教師だ。今度は何の用だろう。「何でしょうか」
「いや、あの、どうされるのかなと思いまして」
何を訊かれているのかわからなかった。
「何がですか」
「ですから」石神は少し間を置いてから続けた。「もし警察に届けるということでしたら、何もいいません。でも、もしそのつもりがないのなら、何かお手伝いできることがあるんじゃないかと思いまして」
「えっ?」靖子は混乱した。この男は一体何をしゃべっているのだ。
「とりあえず」石神が抑えた声でいった。「今からそちらにお伺いしてもいいですか」
「えっ、いえ、それは……あの、困ります」靖子の全身から冷や汗が吹き出した。
「花岡さん」石神が呼びかけてきた。「女性だけで死体を始末するのは無理ですよ」
靖子は声を失った。なぜこの男は知っているのだ。
聞こえたのだ、と彼女は思った。先程からの美里とのやりとりが隣に聞こえたに違いない。いやもしかしたら、富樫と揉み合った時から聞こえていたのかもしれない。
もうだめだ、と彼女は観念した。逃げ道などどこにもない。警察に自首するしかない。美里が関わっていることは、何としてでも隠し続けよう。
「花岡さん、聞いておられますか」
「あ、はい。聞いています」
「そちらに行ってもいいですか」
「えっ、でも……」電話を耳に当てたまま靖子は娘を見た。美里は怯えと不安の入り交じった顔をしていた。母親が誰と何の話をしているのか、不思議に思っているのだろう。
もし石神が隣で聞き耳を立てていたのなら、美里が殺人に無関係でないことも知っているわけだ。彼が警察にそのことを話せば、靖子がどんなに否認したところで、刑事は信用してくれないだろう。
靖子は腹をくくった。
「わかりました。あたしからお願いしたいこともありますので、じゃあ、ちょっと来ていただけますか」
「はい。今すぐに行きます」石神はいった。
靖子が電話を切ると同時に美里が訊いてきた。「誰から?」
「隣の先生よ。石神さん」
「どうしてあの人が……」
「説明は後でするから、あんたは奥にいなさい。襖も閉めて。早く」
美里はわけがわからないという顔で奥の部屋に行った。彼女が襖を閉めるのとほぼ同時に、隣の部屋から石神が出てくる物音が聞こえた。
やがてドアホンが鳴った。靖子は靴脱ぎに下り、ドアの鍵とチェーンを外した。
ドアを開けると石神が神妙な顔つきで立っていた。なぜか紺色のジャージ姿だった。さっきはこんなものは着ていなかった。
「どうぞ」
「お邪魔します」石神は一礼して入ってきた。
靖子が鍵をかけている間に彼は部屋に上がり、何のためらいも見せずに炬燵の布団を剥がした。そこに死体があることを確信しているような動きだった。
彼は片膝をついた格好で富樫の死体を眺めていた。何事かをじっと考えている表情だ。その手に軍手がはめられていることに、靖子は気づいた。
靖子はおそるおそる死体に目を向けた。富樫の顔からはすっかり精気が消えていた。唇の下で涎とも汚物ともつかぬものが乾いて固まっている。
「あの……やっぱり聞こえたんですか」靖子は訊いてみた。
「聞こえた? 何がですか」
「だから、あたしたちのやりとりです。それで、電話をかけてこられたんでしょう?」
すると石神は無表情な顔を靖子に向けてきた。
「いや、話し声は何も聞こえませんでしたよ。このアパート、案外防音だけはしっかりしてるんです。それが気に入って、ここに決めたぐらいですから」
「じゃあどうして……」
「事態に気づいたのか、ですか」
ええ、と靖子は頷いた。
石神は部屋の隅を指差した。空き缶が転がっている。その口から灰がこぼれ出ていた。
「さっき伺った時、まだ煙草の臭いが残ってました。だからお客さんがいるのかなと思ったのですが、それらしき履き物がなかった。そのくせ炬燵の中に誰かいるようでした。コードも挿さずにね。隠れるのだとしたら奥の部屋がある。つまり炬燵の中の人物は隠れているのではなく隠されている、ということになる。その前の暴れたような物音や、あなたの髪が珍しく乱れていたことを踏まえれば、何が起きたのかは想像がつきます。それからもう一つ、このアパートにはゴキブリは出ません。長年住んでいる私がいうのだからたしかです」
表情を変えずに淡々と語る石神の口元を、靖子は茫然と見つめていた。この人はきっと学校でもこんな調子で生徒に説明しているに違いない、と、まるで関係のない感想が浮かんだ。
石神からじっと見られていることに気づき、彼女は目をそらした。自分のことも観察されているような気がした。
恐ろしく冷静で頭のいい人なのだ、と思った。そうでなければ、ドアの隙間からちらりと見ただけで、これだけの推理を組み立てられるはずがない。だが同時に靖子は安堵していた。どうやら石神は、出来事の詳細を知っているわけではなさそうだ。
「別れた夫なんです」彼女はいった。「離婚して何年も経つのに、未《いま》だにつきまとってくるんです。お金を渡さないと帰ってくれなくて……。今日もそんなふうでした。もう我慢ができなくて。それでかっとなって……」そこまでしゃべり、後は俯《うつむ》いた。富樫を殺した時の様子は話せなかった。あくまでも美里は無関係だということにしなければならない。
「自首するつもりですか」
「そうするしかないと思います。関係のない美里は本当にかわいそうなんですけど」
彼女がそこまでしゃべった時、襖が勢いよく開いた。その向こうに美里が立っていた。
「そんなのだめだよ。絶対にだめだからね」
「美室、あんたは黙ってなさい」
「いやだ。そんなのいやだ。おじさん、聞いてよ。この男を殺したのはね――」
「みさとっ」靖子は声を上げた。
美里はびくっと顎を引き、恨めしそうに母親を睨んだ。目が真っ赤だった。
「花岡さん」石神が抑揚のない声を出した。「私には隠さなくていいです」
「何も隠してなんか……」
「あなた一人で殺したのでないことはわかっています。お嬢さんも手伝ったんでしょう」
靖子はあわてて首を横に振った。
「何をいうんですか。あたし一人でやったことです。この子はついさっき帰ってきたところで……。あの、あたしが殺した後、すぐに帰ってきたんです。だから、何も関係ないんです」
だが石神が彼女の言葉を信じている様子はなかった。吐息をつき、美里のほうを見た。
「そういう嘘をつくのは、お嬢さんが辛いと思うけどなあ」
「嘘じゃないです。信じてください」靖子は石神の膝に手を置いた。
彼はその手をじっと見つめた後、死体に目を向けた。それから小さく首を捻った。
「問題は警察がどう見るか、です。その嘘は通用しないと思いますよ」
「どうしてですか」そういってから、こんなふうに訊くこと自体、嘘を認めたようなものだと靖子は気づいた。
石神は死体の右手を指差した。
「手首や手の甲に内出血の痕がある。よく見ると指の形をしている。おそらくこの男性は後ろから首を絞められて、必死でそれを外そうとしたんでしょう。それをさせまいとして、彼の手を掴んだ痕だと思われます。一目瞭然というやつです」
「だからそれもあたしがやったんです」
「花岡さん、それは無理ですよ」
「どうしてですか」
「だって、後ろから首を絞めたんでしょう? その上で彼の手を掴むなんてことは絶対にできません。腕が四本必要になってくる」
石神の説明に、靖子は返す言葉を失った。出口のないトンネルに入ったような気分だ。
彼女はがっくりと項垂《うなだ》れた。一瞥《いちべつ》しただけの石神がここまで見抜けるのだから、警察ならばさらに厳密に調べ抜くだろう。
「あたし、どうしても美里だけは巻き込みたくないんです。この子だけは助けたい……」
「あたしだって、おかあさんを刑務所に入れたくないよ」美里が泣き声でいった。
靖子は両手で顔を覆った。「一体どうしたら……」
空気がずっしりと重くなったような気がした。その重みに靖子は潰されそうだった。
「おじさん……」美里が口を開いた。「おじさんは、おかあさんに自首を勧めにきたんじゃないの?」
石神は一拍置いてから答えた。
「私は花岡さんたちの力になれればと思って電話したんだよ。自首するということなら、それでいいと思うけど、もしそうでないなら、二人だけじゃ大変だろうと思ってね」
彼の言葉に、靖子は顔から手を離した。そういえば電話をかけてきた時、この男は妙なことをいった。女性だけで死体を始末するのは無理ですよ――。
「自首しないで済む方法って、ありますか」美里がさらに訊いた。
靖子は顔を上げた。石神は小さく首を傾《かし》げていた。その顔に動揺の色はない。
「事件が起きたことを隠すか、事件とお二人の繋がりを切ってしまうか、のどちらかだね。いずれにしても死体は始末しなければならない」
「できると思いますか」
「美里」靖子はたしなめた。「何をいってるの」
「おかあさんは黙ってて。ねえ、どうですか、できますか」
「難しいね。でも、不可能じゃない」
石神の口調は相変わらず無機質だった。だがそれだけに理論的裏づけがあるように靖子には聞こえた。
「おかあさん」美里がいった。「おじさんに手伝ってもらおうよ。それしかないよ」
「でも、そんなこと……」靖子は石神を見た。
彼は細い目をじっと斜め下に向けている。母娘が結論を出すのを、静かに待っているという感じだった。
靖子は小代子から聞いた話を思い出していた。それによれば、この数学教師は靖子のことが好きらしい。彼女がいることを確かめてから弁当を買いに来るのだという。
もしその話を聞いていなければ、石神の神経を疑っているところだ。どこの世界に、さほど親しくもない隣人を、ここまで助けようとする人間がいるだろう。下手をすれば自分も逮捕されることになるのだ。
「死体を隠しても、いつかは見つかるんじゃないでしょうか」靖子はいった。この一言が、自分たちの運命を変える一歩だと彼女は気づいていた。
「死体を隠すかどうかはまだ決めていません」石神は答えた。「隠さないほうがいい場合もありますから。死体をどうするかは、情報を整理してから決めるべきです。はっきりしているのは、死体をこのままにしておくのはまずいということだけです」
「あの、情報って?」
「この人に関する情報です」石神は死体を見下ろした。「住所、氏名、年齢、職業。ここへは何をしに来たのか。この後、どこへ行くつもりだったのか。家族はいるのか。あなたが知っているかぎりのことを教えてください」
「あ、それは……」
「でもその前に、まず死体を移しましょう。この部屋は一刻も早く掃除をしたほうがいい。犯行の痕跡が山のように残っているでしょうから」いい終わるや否や、石神は死体の上半身を起こし始めた。
「えっ、でも、移すって、どこに?」
「私の部屋です」
決まってるじゃないかという顔で答えると、石神は死体を肩に担ぎあげた。ものすごい力だった。紺色のジャージの端に、柔道部、と書いた布が縫いつけられているのを靖子は見た。
石神は床に散らばったままの数学関連の書籍を足で払いのけ、ようやく畳の表面が見えたスペースに死体を下ろした。死体は目を開けていた。
彼は入り口で立ち尽くしている母娘のほうを向いた。
「お嬢さんには部屋の掃除を始めてもらおうかな。掃除機をかけて。なるべく丁寧に。おかあさんは残ってください」
美里は青ざめた顔で頷くと、母親をちらりと見てから隣の部屋に戻った。
「ドアを閉めてください」石神は靖子にいった。
「あ……はい」
彼女はいわれたとおりにした後も、靴脱ぎで佇《たたず》んでいる。
「とりあえず上がってください。おたくと違って散らかってますが」
石神は椅子に敷いてあった小さな座布団をはがし、死体のすぐ横に置いた。靖子は部屋に上がったが、座布団には座ろうとせず、死体から顔をそむけるように部屋の隅に腰を下ろした。その様子から、石神は彼女が死体を恐れているのだとようやく気づいた。
「あっ、どうも失礼」彼は座布団を手にし、彼女のほうに差し出した。「どうぞ、使ってください」
「いえ、大丈夫です」彼女は俯いたまま小さく首を振った。
石神は座布団を椅子に戻し、自分は死体の脇に座った。
死体の首には赤黒い帯状の痕がついていた。
「電気のコードですか」
「えっ?」
「首を絞めたものです。電気のコードを使ったんじゃないんですか」
「あ……そうです。炬燵のコードを」
「あの炬燵ですね」死体にかぶせてあった炬燵布団の柄を石神は思い出していた。「あれは処分したほううがいいでしょう。まあ、それは後で私が何とかしましょう。ところで――」石神は死体に目を戻した。「今日、この人と会う約束をしていたんですか」
靖子はかぶりを振った。
「してません。昼間、急に店に来たんです。それで夕方、店の近くのファミリーレストランで会いました。その時は一旦別れたんですけど、後になって家に訪ねてきたんです」
「ファミリーレストラン……ですか」
目撃者はいない、と期待する材料は何もないと石神は思った。
彼は死体のジャンパーのポケットに手を入れた。丸めた一万円札が出てきた。二枚あった。
「あっ、それはあたしが……」
「渡したものですか」
彼女が頷くのを見て、石神はその金を差し出した。しかし彼女は手を出そうとしない。
石神は立ち上がり、壁に吊してある自分の背広の内ポケットから財布を出した。そこから二万円を取り出し、代わりに死体が持っていた札を入れた。
「これなら気味悪くないでしょう」彼は自分の財布から出した金を靖子に見せた。
彼女は少し躊躇う素振りを見せた後、ありがとうございます、と小声でいいながら金を受けとった。
「さて、と」
石神は再び死体の洋服のポケットを探り始めた。ズボンのポケットから財布が出てきた。中には少しばかりの金と免許証、レシートなどが入っていた。
「富樫慎二さん……か。住所は新宿区西新宿、と。今もここに住んでるってことでしたか」免許証を見てから彼は靖子に尋ねた。
彼女は眉を寄せ、首を傾げた。
「わかりませんけど、たぶん違うと思います。西新宿に住んでたこともあったようですけど、家賃が払えなくて部屋を追い出された、という意味のことを聞きましたから」
「免許証自体は去年更新されていますが、すると住民票は移さず、どこかに住処《すみか》を見つけたということになりますが」
「あちこち転々としていたんじゃないでしょうか。定職もなかったから、まともな部屋は借りられなかったと思います」
「そのようですね」石神はレシートのひとつに目を留めた。
レンタルルーム扇屋、とある。金額は二泊分で五六〇〇円前払いする方式らしい。石神は暗算して、一泊が二八〇〇円と弾きだした。
彼はそれを靖子にも見せた。
「ここに泊まっているようです。でもチェックアウトしなければ、いずれは宿の者が部屋を開けます。宿泊客がいなくなっているということで、警察に届けるかもしれませんね。まあ、もしかしたら面倒なのでほうっておく可能性もあります。そういうことがしばしばあるから前払いなのでしょうし。でも、希望的に考えるのは危険です」
石神はさらに死体のポケットを探る。鍵が出てきた。丸い札がついていて、305という数字が刻み込まれている。
靖子はぼんやりとした目で鍵を見つめている。今後どうすればいいのか、彼女自身にはこれといった考えはないように見えた。
隣の部屋からかすかに掃除機の音が聞こえてくる。美里が懸命に掃除をしているのだろう。これからどうなるのかまるでわからないという不安の中、せめて自分のできることをしようと掃除機をかけているに違いない。
自分が守らねばならない、と石神は改めて思った。自分のような人間がこの美しい女性と密接な関わりを持てることなど、今後一切ないに違いないのだ。今こそすべての知恵と力を総動員して、彼女たちに災いが訪れるのを阻止しなければならない。
石神は死体となった男の顔を見た。表情は消え、のっぺりとした印象を受ける。それでもこの男が若い頃は美男子の部類に入ったであろうことは容易に想像できた。いや、中年太りこそしているが、今でも女性から好まれる風貌だったに違いない。
こういう男に靖子は惚れたのだなと石神は思い、小さな泡が弾けるように嫉妬心が胸に広がった。彼は首を振った。そんな気持ちが生まれたことを恥じた。
「この人が定期的に連絡をとっているとか、そういう親しい人はいますか」石神は質問を再開をした。
「わかりません。本当に、今日久しぶりに会ったものですから」
「明日の予定とかは聞きませんでしたか。誰かに会うとか」
「聞いておりません。どうもすみません。何にも役に立てなくて」靖子は申し訳なさそうに項垂れた。
「いや、一応伺っただけです。御存じないのは当然ですから、気にしないでください」
石神は軍手をはめたまま死体の頬を鷲掴みにし、口の中を覗き込んだ。奥歯に金冠がかぶせられているのが見えた。
「歯の治療痕あり、か」
「あたしと結婚している時に、歯医者に通ってました」
「何年前ですか」
「離婚したのは五年前ですけど」
「五年、か」
カルテが残っていないと期待するわけにはいかないと石神は思った。
「この人に前科は?」
「なかったと思います。あたしと別れてからは知りませんけど」
「あったかもしれないわけですね」
「ええ……」
仮に前科はなくても、交通違反で指紋を採られたことぐらいはあるだろう。警察の科学捜査が交通違反者の指紋照合にまで及ぶかどうか石神は知らなかったが、考慮しておくに越したことはない。
死体をどう処置したところで、身元が判明することは覚悟しなければならなかった。とはいえ時間稼ぎは必要だ。指紋と歯型は残せない。
靖子がため息をついた。それは官能的な響きとなって石神の心を揺さぶった。彼女を絶望させてはならないと決意を新たにした。
たしかに難問だった。死体の身元が判明すれば、警察は間違いなく靖子のところへやってくる。刑事たちの執拗な質問攻めに彼女たち母娘は耐えられるか。脆弱《ぜいじゃく》な言い逃れを用意しておくだけでは、矛盾点をつかれた途端に破綻が生じ、ついにはあっさりと真実を吐露してしまうだろう。
完璧な論理、完璧な防御を用意しておかねばならない。しかも今すぐにそれらを構築しなければならない。
焦るな、と彼は自分自身にいい聞かせた。焦ったところで問題解決には至らない。この方程式には必ず解はある――。
石神は瞼を閉じた。数学の難問に直面した時、彼がいつもすることだった。外界からの情報をシャットアウトすれば、頭の中で数式が様々に形を変え始めるのだ。しかし今彼の脳裏にあるのは数式ではない。
やがて彼は目を開いた。まず机の上の目覚まし時計を見る。八時三十分を回っていた。次にその目を靖子に向けた。彼女は息を呑む気配を見せ、後ろにたじろいだ。
「脱がすのを手伝ってください」
「えっ……」
「この人の服を脱がせます。ジャンパーだけでなく、セーターもズボンも脱がせます。早くしないと死後硬直が始まってしまう」そういいながら石神は早くもジャンパーに手をかけていた。
「あ、はい」
増子も手伝い始めたが、死体に触れるのが嫌なのか、指先がふるえている。
「いいです。ここは私がやります。あなたはお嬢さんを手伝ってやりなさい」
「……ごめんなさい」靖子は俯き、ゆっくりと立ち上がった。
「花岡さん」彼女の背中に石神は呼びかけた。振り向いた彼女にいった。「あなた方にはアリバイが必要です。それを考えていただきます」
「アリバイ、ですか。でも、そんなのはありませんけど」
「だから、これから作るんです」石神は死体から脱がせたジャンパーを羽織った。「私を信用してください。私の論理的思考に任せてください」