19
ベンチに座ったまま、靖子は動けずにいた。あの物理学者の話が彼女の全身にのしかかっていた。その内容は衝撃的で、何より重かった。その重さに、彼女の心は押し潰されそうだった。
あの人がそこまで――隣に住む数学教師のことを考えた。
富樫の死体をどう処理したのか、靖子は石神から何も聞かされていない。そんなことは考えなくていいと彼はいったのだ。全部自分がうまく処理したから何も心配しなくていい、電話の向こうから淡々とした口調で語りかけてきたのを靖子は覚えている。
不思議ではあった。警察はなぜ犯行の翌日のアリバイを訊くんだろう、と。それ以前に石神には、三月十日の夜の行動を指示されていた。映画館、ラーメン屋、カラオケボックス、そして深夜の電話。いずれも彼の指示に基づいたものだが、その意味がわからなかった。刑事からアリバイを尋ねられた時、ありのままを答えながらも、本当は逆に問いたかった。なぜ三月十日なのですか。
すべてがわかった。警察の不可解な捜査は、すべて石神の仕掛けによるものだったのだ。だがその仕掛けの内容はあまりにすさまじい。湯川から聞かされ、たしかにそれ以外には考えられないと思いながらも、まだ信じられないでいる。いや信じたくない。石神がそこまでやったとは思いたくない。自分のような何の取り柄もなく、平凡で、大して魅力的とも思えない中年女のために、一生を棒に振るようなことをしたとは考えたくなかった。それを受け入れられるほど自分の心は強くないと靖子は思った。
彼女は顔を覆っていた。何も考えたくなかった。湯川は警察には話さないといった。すべては推論で証拠は何もないから、あなたがこれからの道を選べばいいといった。何という残酷な選択を迫るのだと恨めしかった。
これからどうしていいかわからず、立ち上がる気力さえなく、石のように身体を丸めていると、不意に肩を叩かれた。彼女はぎくりとして顔を上げた。
そばに誰か立っていた。見上げると、工藤が心配そうに彼女を見下ろしていた。
「どうしたんだ?」
なぜここに工藤がいるのか、すぐにはわからなかった。彼の顔を見ているうちに、会う約束をしていたことを思い出した。待ち合わせの場所に現れないので、心配して探しにきたのだろう。
「ごめんなさい。ちょっと……疲れて」それ以外、言い訳が思いつかなかった。それに実際ひどく疲れていた。もちろん身体が、ではなく、精神が、だ。
「具合が悪いのかい?」工藤が優しく声をかけてくる。
だがその優しい響きも、今の靖子にはひどく間の抜けたものにしか聞こえなかった。真実を知らないということは、時には罪悪でもあるのだと思い知った。少し前までの自分もそうだったのだと思った。
大丈夫、といって靖子は立ち上がろうとした。少しよろけると、工藤が手をさしのべてきた。ありがとう、と彼女は礼をいった。
「何かあったの? 顔色がよくないみたいだけど」
靖子はかぶりを振った。事情を説明できる相手ではない。そんな人間はこの世にいない。
「何でもないの。ちょっと気分が悪くなったから休んでただけ。もう平気よ」声を張ろうとしたが、とてもそんな気力は出なかった。
「すぐそこに車を止めてある。少し休んでから行こうか」
工藤の言葉に、靖子は彼の顔を見返した。「行くって?」
「レストランを予約してあるんだ。七時からといってあるけど、三十分ぐらいなら遅れても構わない」
「ああ……」
レストランという言葉も、異次元のもののように聞こえた。これからそんなところで食事をしろというのか。こんな気持ちを抱えたまま、作り笑いを浮かべ、上品なしぐさでフォークとナイフを使えというのか。だが無論、工藤には何の責任もない。
ごめんなさい、と靖子は呟いた。
「どうしてもそういう気分になれないの。食事するなら、もっと体調のいい時のほうがいいわ。今日はちょっと、何というか‥‥‥」
「わかった」工藤は彼女を制するように手を出した。
「どうやらそのほうがよさそうだ。いろいろあったから、疲れても当然だ。今日はゆっくり休んだらいい。考えてみれば、落ち着かない日が続きすぎた。少し、のんびりさせてやるべきだった。僕が気が利かなかったよ。申し訳ない」
素直に謝る工藤を見て、この人もいい人なのだと改めて靖子は思った。心底自分のことを大切に思っている。こんなにも愛してくれる人がたくさんいるのに、なぜ自分は幸せになれないのかと虚しかった。
彼に背中を押されるようにして歩きだした。工藤の車は数十メートル離れた路上に止めてあった。送っていく、と彼はいってくれた。断るべきだと思ったが、靖子は甘えた。家までの道のりは、途方もなく遠く感じられた。
「本当に大丈夫? 何かあったんなら、隠さないで話してほしいんだけどな」車に乗り込んでから工藤は再び訊いてきた。今の靖子を見ていれば、気になって当然かもしれなかった。
「うん、大丈夫。ごめんね」靖子は彼に笑いかけた。精一杯の演技だった。
あらゆる意味で申し訳ない気持ちでいっぱいだった。その気持ちが、あることを彼女に思い出させた。工藤が今日会いたいといってきた理由だ。
「工藤さん、何か重要な話があるっていってなかった?」
「うん、まあ、そうなんだけどね」彼は目を伏せた。「今日はやめておくよ」
「そう?」
「うん」彼はエンジンをかけた。
工藤の運転する車に揺られながら、靖子は外をぼんやりと眺めた。日はすっかり暮れ、街は夜の顔に変わりつつある。このまますべてが闇になり、世界が終わってしまったらどれほど楽だろうかと思った。
アパートの前で彼は車を止めた。
「ゆっくり休むといい。また連絡する」
うん、と頷いて靖子はドアのレバーに手をかけた。すると工藤が、「ちょっと待って」といった。
靖子が振り向くと、彼は唇を舐め、ハンドルをぽんぽんと叩いた。それからスーツのポケットに手を入れた。
「やっぱり、今話しておくよ」
「何?」
工藤はポケットから小さなケースを取り出した。何のケースかは一目でわかった。
「こういうのって、テレビドラマなんかでよく見るからあまりやりたくはないんだけど、まあ、形式の一つかなと思ってね」そういって彼は靖子の前でケースを開いた。指輪だった。大きなダイヤが細かい光を放っていた。
「工藤さん……」愕然として靖子は工藤の顔を見つめた。
「今すぐでなくてもいいんだ」彼はいった。「美里ちゃんの気持ちも考えなきゃいけないし、もちろんその前に君自身の気持ちも大切だ。でも、僕がいい加減な気持ちでいるわけでないことはわかってほしい。君たち二人を幸せにする自信が、今の僕にはある」彼は靖子の手を取り、そこにケースを載せた。「受け取ったからといって負担に思うことはない。これは単なるプレゼントだ。でももし、君が僕とこの先一緒に暮らしていく決心がついたなら、この指輪は意味を持つことになる。考えてみてくれないか」
小さなケースの重みを掌に感じながら、靖子は途方に暮れていた。驚きのあまり、彼の告白の言葉は半分も彼女の頭には入ってこなかった。それでも意図はわかった。わかったからこそ混乱していた。
「ごめん。ちょっと唐突すぎたかな」工藤は照れ笑いを浮かべた。「あわてて答えを出す必要はないから。美里ちゃんと相談してくれてもいい」そういって靖子の手にあるケースの蓋を閉じた。
「よろしく」
靖子は発すべき言葉が思いつかなかった。様々なことが頭の中を駆け巡っていた。石神のことも――いや、それが大半かもしれない。
「考えて……おきます」そう答えるのが精一杯だった。
工藤は納得したように頷いた。それを見てから靖子は車を降りた。
彼の車が去るのを見届けてから彼女は部屋に戻ることにした。部屋のドアを開ける時、隣のドアに目を向けた。郵便物が溢れているが、新聞はない。警察に出頭する前に、石神が解約したのだろう。それぐらいの配慮は、彼にとっては何でもないことに違いなかった。
美里はまだ帰っていなかった。靖子は座り込み、長い吐息をついた。それからふと思いついて、そばの引き出しを開けた。一番奥に入れてある菓子箱を取り出し、蓋を取った。過去の郵便物を入れた箱だが、その一番下から封筒を抜き取った。封筒には何も書かれていない。中には一枚のレポート用紙が入っていた。文字がびっしりと書かれている。石神が最後の電話をかけてくる前に、靖子の部屋の郵便受けに投入したものだ。この文書と一緒に三通の封筒が入っていた。いずれも彼が靖子のストーカーをしていたことを示すものだった。現在その三通の手紙は警察にある。
文書には手紙の使い方、やがて彼女のもとに訪ねてくるであろう刑事たちへの応答の仕方などが、細かく記されていた。靖子に対してだけでなく、美里への指示も書いてあった。あらゆる状況を見越し、どんな質問を受けても花岡母娘がぐらつかないでいられるような配慮が、その丁寧な説明文に込められていた。そのおかげで靖子も美里も、うろたえることなく、堂々と刑事たちと対峙できた。ここで下手な対応をして嘘が見抜かれては、石神のせっかくの苦労が水の泡になるという思いが靖子にはあった。おそらく美里も同じ気持ちだろう。
それらの指示の最後に、次の文章が付け足してあった。
『工藤邦明氏は誠実で信用できる人物だと思われます。彼と結ばれることは、貴女と美里さんが幸せになる確率を高めるでしょう。私のことはすべて忘れてください。決して罪悪感などを持ってはいけません。貴女が幸せにならなければ、私の行為はすべて無駄になるのですから。』
読み返してみて、また涙が出た。
これほど深い愛情に、これまで出会ったことがなかった。いやそもそも、この世に存在することさえ知らなかった。石神のあの無表情の下には、常人には底知れぬほどの愛情が潜んでいたのだ。
彼の自首を知った時、単に自分たちの身代わりで出頭しただけだと思っていた。だが湯川の話を聞いた今では、この文書に込められた石神の思いが、一層強く胸に突き刺さってくる。
警察にいって、すべてを話してしまおうかと思う。だがそれをしたところで石神は救われない。彼もまた殺人を犯しているのだ。
工藤からもらった指輪のケースが目に留まった。蓋を開け、指輪の輝きを見つめた。
こうなってしまった以上は、せめて石神の希望通りに、自分たちが幸せを掴むことを考えるべきなのかもしれなかった。彼が書いているように、ここでくじければ、彼の苦労は無駄になってしまうのだ。
真実を隠しているのは辛い。隠したまま幸せを掴んだところで、本当の幸福感は得られないだろう。一生自責の念を抱えて過ごさねばならず、気持ちが安らぐこともないに違いない。しかしそれに耐えることが、せめてもの償いなのかもしれないと靖子は思った。
指輪を薬指に通してみた。ダイヤは美しかった。心に曇りを持たぬまま工藤のもとへ飛び込んでいけたらどんなに幸せだろうと思った。だがそれは叶わぬ夢だ。自分の心が晴れることはない。むしろ、心に一点の曇りも持っていないのは石神だった。
指輪をケースに戻した時、靖子の携帯電話が鳴った。彼女は液晶画面を見た。知らない番号が表示されていた。
はい、と彼女は答えてみた。
「もしもし、花岡美里さんのおかあさんですか」男の声だった。聞き覚えはない。
「はい、そうですけど」不吉な予感がした。
「私、森下南中学校のサカノといいます。突然お電話して申し訳ありません」
美里の通っている中学だ。
「あの、美里に何か?」
「じっは先程、体育館の裏で、美里さんが倒れているのが見つかったんです。それが、あの、どうやら、手首を刃物か何かで切ったようで」
「えっ……」心臓が大きく跳ね、息が詰まった。
「出血がひどいので、すぐに病院に運びました。でも命に別状はありませんから御安心ください。ただ、あの、自殺未遂の可能性がありますので、そのことは御承知おき願いたいと……」
相手の話の後半は、殆ど靖子の耳には届いていなかった。
目の前の壁には無数の染みがついていた。中から適当な何点かを選び、頭の中でそれらの点をすべて直線で結んだ。出来上がった図形は、三角形と四角形と六角形を組み合わせたものになった。次にそれを四つの色で塗り分けていく。隣同士が同じ色になってはいけない。もちろんすべて頭の中での作業だ。
その課題を石神は一分以内でこなした。一旦頭の中の図形をクリアし、別の点を選んで同様のことを行う。単純なことだが、いくら繰り返しても飽きることはなかった。この四色問題に疲れたら、次は壁の点を使って、解析の問題を作ればいい。壁にある染みのすべての座標を計算するだけでも、かなりの時間を使いそうだった。
身体を拘束されることは何でもない、と彼は思った。紙とペンがあれば、数学の問題に取り組める。もし手足を縛られても、頭の中で同じことをすればいい。何も見えなくても、何も聞こえなくても、誰も彼の頭脳にまでは手を出せない。そこは彼にとって無限の楽園だ。数学という鉱脈が眠っており、それをすべて掘り起こすには、一生という時間はあまりに短い。
誰かに認められる必要はないのだ、と彼は改めて思った。論文を発表し、評価されたいという欲望はある。だがそれは数学の本質ではない。誰が最初にその山に登ったかは重要だが、それは本人だけがわかっていればいいことだ。
もっとも、現在の境地に達するには、石神にしても時間がかかった。ほんの少し前までは、生きている意味を見失いかけていた。数学しか取り柄のない自分が、その道を進まないのであれば、もはや自分に存在価値はないとさえ思った。毎日、死ぬことばかりを考えていた。自分が死んでも誰も悲しまず、困らず、それどころか、死んだことにさえ誰も気づかないのではないかと思われた。
一年前のことだ。石神は部屋で一本のロープを手にしていた。それをかける場所を探していた。アパートの部屋というのは、案外そういう場所がない。結局柱に太い釘を打った。そこへ輪にしたロープをかけ、体重をかけても平気かどうかを確認した。柱はみしりと音をたてたが、釘が曲がることも、ロープが切れることもなかった。
思い残すことなど何ひとつなかった。死ぬことに理由などない。ただ生きていく理由もないだけのことだ。
台に上がり、首をロープに通そうとしたその時、ドアのチャイムが鳴った。
運命のチャイムだった。
それを無視しなかったのは、誰にも迷惑をかけたくなかったからだ。ドアの外にいる誰かは、何か急用があって訪ねてきたのかもしれない。
ドアを開けると二人の女性が立っていた。親子のようだった。
隣に越してきた者だと母親らしき女性が挨拶した。娘も横で頭を下げてきた。二人を見た時、石神の身体を何かが貫いた。
何という奇麗な目をした母娘だろうと思った。それまで彼は、何かの美しさに見とれたり、感動したことがなかった。芸術の意味もわからなかった。だがこの瞬間、すべてを理解した。数学の問題が解かれる美しさと本質的には同じだと気づいた。
彼女たちがどんな挨拶を述べたのか、石神はろくに覚えていない。だが二人が彼を見つめる目の動き、瞬きする様子などは、今もくっきりと記憶に焼き付いている。
花岡母娘と出会ってから、石神の生活は一変した。自殺願望は消え去り、生きる喜びを得た。
二人がどこで何をしているのかを想像するだけで楽しかった。世界という座標に、靖子と美里という二つの点が存在する。彼にはそれが奇跡のように思えた。
日曜日は至福の時だった。窓を開けていれば、二人の話し声が聞こえてくるのだ。内容までは聞き取れない。しかし風に乗って入ってくるかすかな声は、石神にとって最高の音楽だった。
彼女たちとどうにかなろうという欲望は全くなかった。自分が手を出してはいけないものだと思ってきた。それと同時に彼は気づいた。数学も同じなのだ。崇高なるものには、関われるだけでも幸せなのだ。名声を得ようとすることは、尊厳を傷つけることになる。
あの母娘を助けるのは、石神としては当然のことだった。彼女たちがいなければ、今の自分もないのだ。身代わりになるわけではない。これは恩返しだと考えていた。彼女たちは身に何の覚えもないだろう。それでいい。人は時に、健気に生きているだけで、誰かを救っていることがある。
富樫の死体を目にした時、石神の頭の中ではすでに一つのプログラムが出来上がっていた。
死体を完璧に処分するのは困難だ。どれだけ巧妙にやっても、身元の判明する確率をゼロにはできない。また仮に運良く隠せたとしても、花岡母娘の心が安らぐことはない。いつか見つかるのではないかと怯えながら暮らすことになる。彼女たちにそんな苦しみを味わわせることは耐えられなかった。
靖子たちに安らぎを与えるには方法は一つしかない。事件を、彼女たちと完全に切り離してしまえばいいのだ。一見繋がっていそうだが、決して交わらない直線上に移せばいい。
そこで、『技師』を使おう、と心に決めた。
『技師』――新大橋のそばでホームレスの生活を始めたばかりの男だ。
三月十日の早朝、石神は『技師』に近づいた。『技師』はいつものように、ほかのホームレスから離れた場所で座っていた。
仕事を頼みたい、と石神は持ちかけた。数日間、河川の工事に立ち会ってほしいといった。『技師』が建築関係の仕事をしていたことには気づいていた。なぜ自分に、と『技師』は訝《いぶか》った。事情があるのだ、と石神はいった。本来その仕事を頼んでいた男が事故で行けなくなったのだが、立会人がいないと工事の許可が下りないので、身代わりが必要――そういうことを話した。
前金で五万円を渡すと、『技師』は承諾した。石神は彼を連れて、富樫の借りているレンタルルームに行った。そこで富樫の服に着替えさせ、夜までじっとしているように命じた。
夜、瑞江駅に『技師』を呼び出した。その前に石神は篠崎駅で自転車を盗んでいた。なるべく新しい自転車を選んだのは、持ち主に騒いでもらったほうがありがたいからだ。
じつはもう一台自転車を用意してあった。それは瑞江駅の一つ手前の一之江駅で盗んできた。こちらは古く、施錠もいい加減なものだった。
新しいほうの自転車に『技師』を乗らせ、二人で現場に向かった。旧江戸川べりの、例の場所だ。
その後のことは思い出すたびに気持ちが暗くなる。『技師』は事切れるまで、自分がなぜ死なねばならないのかわからなかったことだろう。
第二の殺人については、誰にも知られてはならなかった。とりわけ花岡母娘には絶対に気づかれてはならなかった。そのためにわざわざ同じ凶器を使い、同じような絞め方で殺したのだ。
富樫の死体は、風呂場で六つに分割し、それぞれに重石をつけた上で隅田川に投棄した。三箇所にわけ、すべて夜中に行った。三晩かかった。いずれ発見されるだろうが、それは構わない。
死体の身元を警察は絶対に突き止められない。彼等の記録では富樫は死んでいる。同じ人間が二度死ぬことはない。
このトリックに、おそらく湯川だけは気づいている。だから石神としては警察に出頭する道を選んだ。そのことは最初から覚悟していたし、準備もしてあった。
湯川は草薙に話すだろう。草薙は上司に伝えるだろう。だが警察は動けない。被害者の身元が違っていることなど、もはや証明できない。起訴は間もなく、と石神は踏んでいた。今さら後戻りなどできない。その根拠もない。天才物理学者の推理がどれほど見事であろうとも、犯人の告白に勝るものではない。
自分は勝ったのだ、と石神は思った。
ブザーの音が聞こえた。留置場の出入りに使うものだ。看守が席を立った。
短いやりとりがあり、誰かが入ってきた。石神のいる居房の前に立ったのは草薙だった。
看守に命じられ、石神は居房を出た。身体検査をされた上で、草薙に身柄を引き渡された。その間、草薙は一言も発しない。留置場のドアを出たところで、草薙が石神のほうを向いた。
「体調はどうですか」
この刑事は未だに敬語を使う。何か意味があるのか、彼の方針なのか、石神にはわからない。
「さすがに少し疲れました。出来れば、法的処置を早くしてもらいたいです」
「じゃあ、取調べはこれを最後にしましょう。会ってもらいたい人物がいるんです」
石神は眉をひそめた。誰だろう。まさか靖子ではあるまい。
取調室の前に行くと、草薙がドアを開けた。中にいたのは湯川学だった。沈んだ顔をして、つと石神を見つめてきた。
最後の難関だな――彼は気を引き締めた。
二人の天才は、机を挟んでしばらく黙っていた。草薙は壁にもたれるようにして立ち、彼等の様子を見守った。
「少し痩せたようだな」湯川が口火を切った。
「そうかな。食事はちゃんととっているんだが」
「それはよかった。ところで」湯川は唇を舐めた。「ストーカーのレッテルを貼られて悔しくないか?」
「俺はストーカーではないよ」石神は答えた。「花岡靖子を陰ながら守ってきた。何度もそういっている」
「それはわかっている。君が今も彼女を守っていることもね」
石神は一瞬不快そうな顔をし、草薙を見上げた。
「こういうやりとりが捜査の役に立つとは思えないんですが」
草薙が黙っていると、湯川がいった。
「僕の推理を彼に話したよ。君が本当は何をしたのか、誰を殺したのか、を」
「推理を話すのは自由だ」
「彼女にも話した。花岡靖子にも」
湯川の言葉に、石神の頬がぴくりと引きつった。だがすぐに薄笑いに変わった。
「あの女は少しは反省している様子だったか。俺に感謝していたか。厄介者を始末してやったというのに、自分は何の関係もないと、しゃあしゃあと語っているそうじゃないか」
口元を歪め、性悪を演じる姿に、草薙は胸が詰まった。人間がこれほど他人を愛することができるものなのかと感嘆するばかりだった。
「君は自分が真実を語らないかぎり、真相が明らかになることはないと信じているようだが、それは少し違う」湯川はいった。「三月十日、一人の男性が行方不明になった。何の罪もない人間だ。その人物の身元を突き止め、家族を探しだせれば、DNA鑑定が可能になる。富樫慎二と思われた遺体のそれと照合すれば、遺体の本当の正体がわかる」
「何のことをいっているのかよくわからんが」石神は笑みを浮かべていた。「その男に家族はいないんじゃないかな。また仮に別の方法があるとしても、遺体の身元を明かすには膨大な手間と時間が必要になる。その頃、俺の裁判は終わっている。もちろんどんな判決が出ようとも控訴しない。結審すれば事件は終わる。富樫慎二殺害事件は終了。警察には手が出せない。それとも」彼は草薙を見た。「湯川の話を聞いて、警察は態度を変えるかな。しかしそのためには、俺を釈放せねばならない。その理由は何だ。犯人じゃないから? だが俺は犯人だ。この自白をどう扱う?」
草薙は俯いた。彼のいうとおりだった。彼の自供内容が嘘であることを証明できないかぎり、流れにストップはかけられない。警察のシステムとはそういうものだ。
「君にひとつだけいっておきたいことがある」湯川はいった。
なんだ、というように石神が彼を見返した。
「その頭脳を……その素晴らしい頭脳を、そんなことに使わねばならなかったのは、とても残念だ。非常に悲しい。この世に二人といない、僕の好敵手を永遠に失ったことも」
石神は口を真一文字に結び、目を伏せた。何かに耐えているようだった。
やがて彼は草薙を見上げた。
「彼の話は終わったようです。もういいですか」
草薙は湯川を見た。彼は黙って頷いた。
行こうか、といって草薙はドアを開けた。まず石神が外に出て、湯川がそれに続いた。
湯川を残し、石神だけを留置場に連れていこうとした時だった。通路の角から岸谷が現れた。さらに彼の後から一人の女がついてきた。
花岡靖子だった。
「どうしたんだ」草薙は岸谷に訊いた。
「それが……この人から連絡があって、話したいことがあるということなので、それで、たった今、あの、すごい話を……」
「一人で聞いたのか」
「いえ、班長も一緒でした」
草薙は石神を見た。彼の顔は灰色になっていた。その目は靖子を見つめ、血走っていた。
「どうして、こんなところに‥‥‥」呟いた。
凍り付いたように動かなかった靖子の顔が、みるみる崩れていった。その両目から涙が溢れていた。彼女は石神の前に歩み出ると、突然ひれ伏した。
「ごめんなさい。申し訳ございませんでした。あたしたちのために……あたしなんかのために……」背中が激しく揺れていた。
「何いってるんだ。あんた、何を……おかしなことを……おかしなことを」石神の口から呪文のように声が漏れた。
「あたしたちだけが幸せになるなんて……そんなの無理です。あたしも償います。罰を受けます。石神さんと一緒に罰を受けます。あたしに出来ることはそれだけです。あなたのために出来ることはそれだけです。ごめんなさい。ごめんなさい」靖子は両手をつき、頭を床にこすりつけた。
石神は首を振りながら後ろに下がった。その顔は苦痛に歪んでいた。
くるりと身体の向きを変えると、彼は両手で頭を抱えた。
うおううおううおう――獣の咆哮《ほうこう》のような叫び声を彼はあげた。絶望と混乱の入り交じった悲鳴でもあった。聞く者すべての心を揺さぶる響きがあった。
警官が駆けつけてきて、彼を取り押さえようとした。
「彼に触るなっ」湯川が彼等の前に立ちはだかった。「せめて、泣かせてやれ……」
湯川は石神の後ろから、彼の両肩に手を載せた。
石神の叫びは続いた。魂を吐き出しているように草薙には見えた。